いただいた指示書のなかに聞き慣れない言葉がありました。
「崇高性のある…」
崇高性とは何か。まさかこんな小さな疑問が
これほど深い溝にはまることになるとは。
まず最初にカントに出会い
そこに群がる世界中の論者200年間の言葉を読み進むほどに
分かったことと釈然としないものがだくだく生まれ続けました。
この不毛とも言えるやりとりが大学における哲学科の正当な論じ合いなのでしょうか。
哲学とは言葉とは
つまるところ後付け解釈であり噂話に近い仮説の応酬。
右脳で生きるワタシには実体験による感動だけが真実であると再認識したわけです。
明日は京都マラソン。
知人の旦那が走ります。東大哲学科出身の彼がどういう気持ちで走るのか。
カントの崇高論を読むとき彼を主観に使っておりました。
マラソンとは何なのか。
何に出会い自分のなかに何を見るのか。
マラソンは崇高なるもののもつ快を与えてくれるのでしょう。
本物の感動は常に実践者のみに与えられるのでした。
企画書に小難しい言葉をちらすのはヤメてほしいです。